神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

はじめに

私たちの祖先は、豊かな自然の風土の中で営みを続けてきた。
自然の中の一つの小さな存在でしか過ぎない人間として、畏敬の念をもって自然を崇拝してきたのである。
自然に恵みを祈り、その恵みに対して感謝をし、時には畏怖感を抱きながら山に川に岩に、そして小さな草木に至るまで、まさに、そこかしこに神々の存在を感じながら営みを続けてきた。
つまり、霊威を表す自然の万物全てが神であり、その神の存在にあるがままに触れ、感応してきたのである。
そして、あらゆるものを流し清める浄化力を持つ水、その水によって作られた命の糧である米、身体に不可欠で万物を祓い清める塩、緑の象徴である榊を神棚に供え、神を祀り、感謝をし、祈りを捧げてきた。
日本人にとって本来の神とは、このように自然の中から自然に芽生えたものであり、現在に生きる我々が感じる以上により身近な存在であり、宗教とか、あるいは思想などといったものを超えた次元のものであると思う。
それは取りも直さず我々日本人の源泉であり、他者に誇らずとも決して忘れてはならない一民族としての魂と誇り、自然との営みの中で育まれた繊細で瑞々しい感性と情緒、日本固有の美しい文化、そして悠久の歴史があるということである。

この私も、40歳の半ばを過ぎた頃から足繁く神社に足を運ぶようになり、気が付けば幾度となく神社を訪れてきた。
これといって何を祈願する訳でも、ましてや何の御利益を求めて参拝している訳でもない。
何故、好き好んで神社に行くのかと問われても上手く説明できないが、自然の織り成す美しい造作を目の当たりにしたり、古の昔から存在しているものを間近にすると、鳥肌が立つほどの込み上げるような感動を覚え、素直に謙虚な気持ちにさせられるのと同じ感覚であると表現すれば良いのだろうか。
そこには、心を穏やかにしてくれる厳かな空間がある。
真っ直ぐに伸びた常緑樹の木々の間から差し込む凛とした日差しを受けながら、荘厳な霊気の漂う空気の中に身を委ねていると、世俗の垢にまみれて日常は神も仏の存在も忘れてしまう私のような不信人な身であっても、清らかな気持ちにさせられる神社。
つまり、神社を訪れることによって心身のバランスを保ち、何かを心の拠り所として生きなければならない一人の弱い人間であると認めているようなものでもある。

幾度も神社に通い続けていると、神社ほど人々の長い歴史を秘めているものはないと思えてくる。
神社の話をすれば辛気臭い趣味だと思われ、中には右翼か愛国主義者かと短絡的に誤解する人もいそうだが、そもそも私は、そのようないわゆる変に思想じみたものは一切持ち合わせていない。
家族を愛し、郷土を愛し、国を愛す・・・当たり前のことであり、自然なありようではなかろうか。
世の中の文明が幾ら進歩しようとも変わってはならないもの、失ってはならない大切なもの、魂がある。
つまり、偉そうな表現をさせて貰えるなら、哲学を持った人としての道を歩める人間でありたいと願っているだけなのである。
第一、お金に縁がないとあきらめている貧乏人の私にとっては、有り難いことに神社はそれほどお金の掛かる趣味でもなく、また、元来、新しいものより古いものの方が性に合っている単なる中年の親父である。
無論、お金は多いに越したことはない。
出来るものなら、手に入れたいと淡い夢も抱いている。
しかしながら、お金に限らず、人様と比較して羨んでみても自分を見失ってしまうだけである。
行く着くところ人はみな同じ・・・そう思えば少しは気も楽になる。
そうであれば、大樹でなくとも根っ子がある人間として、生きた証のある生き方をしたいものだ。

清らかに自戒の念をも抱かせてくれる神社、幼い頃から神楽囃子に心踊ろされ身に染み付いている神楽、そして、その謎と神秘さに魅力を感じさせる古代史の話題を織り交ぜながら、つれづれなるままに書き綴ってみた。

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