神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

太鼓谷稲成神社(島根県鹿足郡津和野町)

数年ぶりに訪れた津和野の町は、雪化粧を纏っていた。
数日前より降り積もった雪は、今日になって融け始めているものの、山に囲まれた盆地の町は底冷えがするほどの寒さである。
中学生の頃には、友達と連れ立って訳もなく数時間も掛けて自転車で遊びにきたり、小説にかぶれていた学生の頃には長い休みを利用して、森鴎外の生家や乙女峠を訪ねてみたりと、私にとっては幾つかの思い出が思い起こされる町でもある。
今では、程近い隣県の萩と相俟って、蒸気機関車が走る観光の町としても有名になった津和野であるが、昭和40年代以前の津和野は、まだまだ静けさの漂う町であったように思う。

この津和野という町の名前は、「つわぶきの生い茂る野」をその名の由来とされたおり、群生する黄色い可憐な花に心を惹かれた古の人々が、その清楚な風情に魅せられて「つわの」と呼ぶようになったと伝えられている。
歴史も古く、町の調査によれば、はるか9,000年前の縄文時代まで遡ると確認されており、中世から近世にかけても、吉見氏、坂崎氏、亀井氏の代へと幾多の歴史を刻んでいる。
また、国学者の福羽美静、日本哲学の祖である西周や文豪・森鴎外などの人材を輩出した町でもある。

息を切らせながら上がった境内から麓を眺めると、そこには素朴な美しさを湛えた水墨画のような景色が眼前に広がっていた。
ここから眺める麓の町は、多くの参拝客で賑わっている境内の喧騒が嘘のように、雪に覆われてひっそりと息を潜めているかのようであった。
ここ太鼓谷稲成神社は、京都の伏見稲荷大社、茨城県の笠間稲荷神社、宮城県の竹駒神社、そして佐賀県の祐徳稲荷神社と並び、日本五大稲荷神社の一つに数えられている。
また、神社ではないが、江戸の名奉行・大岡越前が信仰したことで知られる愛知県の豊川稲荷は、仏教の茶枳尼天(だきにてん)を稲荷神として祀っている。
全国の神社の中で最も多く、その数は三万社余りとも言われている稲荷社の総本社となっているのは、稲荷信仰の発祥である伏見稲荷大社であり、和銅4年(711年)2月9日の初午の日に、帰化氏族である秦氏の遠祖がこの地に祀ったのが始まりとされている。
その伏見稲荷から安永2年(1773年)、第七代の津和野藩主であった亀井矩貞公によって斎き祀ったのが、太鼓谷稲成神社の始まりである。

主祭神は、伊勢神宮の外宮に鎮座する豊穣の女神「豊受大神」と同一神とされている、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、日本書記では倉稲魂命)である。
伏見稲荷(伊奈利社)の起源を伝える「山城国風土記」の伝承によると、「いなり」は元来「稲生り(いねなり)」であると言う。
また、日本書記の一書によれば、天照大御神の詔によって葦原中津国に遣わされた月読命をもてなした保食神(うけもちのかみ、大宜津比売神と同様、宇迦之御魂神と同一視されている)が、口から飯などの食物を出したのを汚らわしいとした月読命によって殺された時、保食神の体が稲や粟、稗などの五穀や蚕に化成したところから、「いねなり」の語源とされている。
今では、商売繁盛の神様として江戸時代より民間に広く信仰されているが、名前に「稲」と付くように、元々は五穀と養蚕を司る神であり、五穀豊穣を守護する神として農村を中心に崇められていた。
今日ように、稲荷神が日本中に広がった切っ掛けとなったのは、平安時代の初頭に真言密教と結び付いたことにあり、その重要な役割を担ったのが真言宗の開祖、空海であると言われている。
真言密教と強く関わりあった稲荷神は、仏教の現世利益の考え方を取り入れ、庶民への仏教の広がりとともにその信仰を広めていった。
そして、中世から近世における工業の起こりと商工業の発展という、社会の変化から生じた人々の新たな欲求を柔軟に受け入れた結果、稲荷神の神格も、本来の農耕神から商工業を始めとする諸産業の守護神へと変化し、御利益も五穀豊穣から商売繁盛へと変わっていった。
つまり、庶民の現世的な願い事をするには、稲荷神は頼もしく都合の良い神様であり、融通のきく身近な神様として篤く信仰されたのである。

お稲荷さんと言えば、狐がつきものである。
真言密教では、稲荷神を茶枳尼天と同一神であるとしている。
この茶枳尼天、元は夜叉または羅刹の一種で、自在に通力を使い6ケ月前には人の死を知り、その肉を食らうという存在であったと言う。
その茶枳尼天が、仏に降伏させられてからは善神となり、平安時代には、その神の本体は霊狐とみなされるようになって、これが狐の習性と山神信仰とが結び付いた、「狐は田の神の使い」とする農民の信仰とが結び付いていったのであると言われている。
その狐であるが、神楽の中にも登場している。
石見神楽では「黒塚」という演目で知られ、また、広島県・芸北地方の神楽では、「安達ケ原」あるいは「那須野ケ原」として知られている神楽である。
これらの伝承や神楽の詞章からも分かるように、おおらかに神仏を習合させていった日本人の宗教観が垣間見える。

ところが、この狐に纏わる言葉を聞かれなくなって久しい。
その言葉とは、「狐につままれた」とか「狐に騙された」と言う言葉である。
聞かれなくなったと言うより、もはや死語になりつつあるように思える。
私が幼い頃には、祖母や近所のおじさん、おばさん達から事ある毎に聞かされた言葉であったが、思い返せば、おそらく昭和40年代の前半、あるいは中頃から徐々に薄れていった言葉ではなかろうか。
科学が発達した現在において、「狐につままれるなどとは」と一笑してしまえばそれまでのことであるが、何故このような日本人の民族性を表す言葉が失われていくのであろうか。

狐が住む森が荒廃しつつあるせいなのか、それとも狐の霊力が衰えてしまったのか・・・。
思えば、戦後の高度成長をひたすら歩み続けた我が国は、経済的価値が最優先し、あらゆるものに経済的な尺度でもって価値があるか否かで判断するようになっていった。
敗戦の教訓の上に成立した、経済成長と科学技術の振興に対する人々の強い希求が、このような戦後の精神風土を作り出したとも言える。
そして、経済を優先するあまり、自然から発するメッセージを感じ取り、読み取る能力が退化していったのであろうか。

一方、情報手段やコミュニケーションの場においても、大きな変化がもたらされた。
それは、情報を得るにしても、互いの意思の疎通を図るにしても、そこには必ず「想像力」や「読み取る」、「感じ取る」という行為が伴われていたが、それが今では、このような行為を必ずしも必要としないテレビや電話、パソコンなどが、情報手段とコミュニケーションの主役に成り代わっていることである。。
例えば、生物の行動や植物の成長、あるいは天候の変化などから情報を得て、それらの事象から何かを読み取り、感じ取って日々の生活の場に活かしていた。
また、ラジオにしても、流れてくる放送に耳を傾け、日常生活や過去の経験を重なり合わせて、想像するという行為が伴われている。
新聞や小説などの書物を読むことにしても、また然りである。
互いに交わす会話にしても、その会話における表情や口ぶり、身振りなどから何かを「読み取り、感じ取る」ことが出来たのである。

ここに手のひらにスッポリと収まる「リモコン」という代物がある。
おそらく、何処の家庭にも一つや二つはあるであろう、このリモコン・・・仕事柄、このリモコンに纏わる、笑うに笑えない相談に遭遇することが増えてきた。
それを一言で言い表すなら、「リモコンというものは、自分の思いを思うように叶えてくれる魔法の代物」のように錯覚しているのではないか?、と思うことである。
「リモコンで温度調節したのですが、暑すぎて・・・」、「思ったより暑くなり過ぎて、今すぐどうすれば良いのですか?」などなどと。
「暑ければ自分の感覚に合わせて、温度設定を下げるなり切るなり、それとも自分が行おうとする時間から逆算して時間設定を調節してみれば・・・今すぐにと思うなら、窓を少し開けて温度や湿度を下げてみるとか」・・・受話器を持った私の思いは、「一々、こんなことで電話で相談してくるの。私の子供でも直ぐに分かることなのに、何でこうなの?」・・・正直なところ、内心はこんな風に嘆いております。
リモコンは便利な優れた物ではあるけれど、これほどまでに「ちょっとした工夫」という行為をも、人間にさせてしまわなくなったのであろうか。

「想像力」や「読み取る」、「感じ取る」という行為は、個々の「人間」というものが存在してこそ、始めて成り立つものである。
そして、このような行為が積み重なった上に、「思いやり」や「いたわり」、「知恵」という人としての能力が備わっていくものであると思う。
「情報」という文字を分解してみると「情に報いる」となり、「自然」は「自ら然り」となる。
多くの日本人がそうであるように、私も日々の生活という現実を前にして、経済という大きな歯車の中にズッポリと嵌まり切ってしまっているが、時には幼い頃の自分を振り返ったり、歴史を学んで教訓にしなければと、反省しきりの今日この頃である。



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