神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

須我神社(島根県雲南市大東町須賀)

松江の市街地から忌部街道を南に下り、峠を越えて程なくすると、静かな集落の中に日本初之宮である須我神社が鎮座されている。
祭神として須佐之男命と櫛名田比売、そして両神の御子神である八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)の三神を祀っており、合殿には天文年間に信濃国諏訪より中沢豊前守が当地に赴任してきた時、氏神である諏訪大社の建御名方命を勧請して合祀している。
以来、村名も諏訪村と称されていた時期もあったが、明治22年に地名、社名ともに須賀(須我)に復され、明治25年には県社に列せられた。
神社の背後にある須我山(八雲山)の山ふところには、夫婦岩と呼ばれる巨岩と小祠がある。
この巨岩は須我神社の奥宮となっている磐座であり、元は須賀の地の総氏神として祭祀信仰されていた。
この磐座には神社から続く小道を歩き、急峻な坂を登っていった所にあるが、周囲は木々に覆われて薄暗く、昼間でも人気のない寂しい所である。
その巨岩は、永い時の流れを重ね織るように苔むしており、古の人々もこの場で祈りを捧げたかと思うと不思議な心持ちにさせられる。

古事記によると、八岐大蛇を退治した須佐之男命は、宮を造るに相応しい所を出雲の地に求めて巡り歩いたすえに、此処、須賀の地に辿り着き、「吾此処地に来まして、我が心須賀須賀し」と仰せになったと伝えている。
そして、命が初めて須賀の宮を造った時、まるで宮殿を包み込むかのように美しい雲が立ち昇るを目の当たりにし、「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀伎 都麻碁微爾 夜幣賀伎都久流 曾能夜幣賀伎袁(やくもたつ いずもやえがき つまごみにやえがきつくる そのやえがきを)」の歌を詠んだとされている。
故に、この宮が古事記、日本書記に顕れる日本初之宮であり、三十一文字和歌の発祥の地とされている。

和歌という呼び方は、古くは漢詩などに対する日本固有の歌、即ち「やまとうた(倭歌、大和歌)」の意味であり、奈良時代には倭歌(わか)あるいは倭詩(わし)とも言ったそうである。
狭義には三十一音を定型とする短歌を和歌と呼ぶため、三十一文字とも言われているが、前述の須佐之男命の歌が最初の和歌であることから、その初めの語句を取って「八雲」とも言い、「八雲の道」と言えば「歌道」のことであると言われている。

さて、この和歌であるが、私のような無粋な人間にとっては、普段は殆ど接することのないものである。
しかしながら、その中には日本人の遺伝子とも言うべき魂が脈々と受け継がれている。
例え普段は短歌に接することがなくとも、四季折々の風情を感じたり、遠い記憶や近い記憶に自分を照らし合わせて思いを重ねたり、あるいは感銘を受けた歌が、一つや二つ心の奥底に留められているのではなかろうか。
また、同じ歌であっても、読者によって心に映し出されるものは人それぞれであり、深みがあるのも歌の世界ではなかろうか。

私が初めて覚えた短歌は、吉田松陰の詠んだ次の歌である。
どのような切っ掛けでこの歌を覚えたのか、今となっては記憶が定かでないが、確か小学校の高学年の頃、町内会か子供会の日帰り旅行で連れて行かれた萩の町で教えられた歌であったと思う。
「親思ふ 心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらん」
長い歳月が過ぎた今となっても、決して忘れることの出来ない、親と子の深い慈愛を詠んだ歌である。

「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」
この本居宣長の歌は、桜の美しさと散り際の潔さ、儚さに日本人の美意識を重ね合わせて詠んだ歌である。
桜とただ一言で言っても、「待つ花」、「初花」、「花の雪」、「花の雲」、「花吹雪」、「花筵」、「花散る」、「花筏」、「名残花」と、その表現は色とりどりであり、時節によって桜のもつ趣の異なった風情が伝わってくる。

勿論、神楽の中にも素晴しい歌の数々が散りばめられている。
「心だに 誠の道に適ひなば 祈らずとても神や守らん」
この歌は、私にとって心の支えとなる嚮導の歌であり、好きな歌の一つである。
「天の戸を 開いて月の夜もすがら 静々拝む天の岩戸を」
この歌を口ずさみながら神楽に魅入る時、うっとりと、しっとりと・・・何とも言えない心地よさに浸される。

和歌・・・その僅か三十一文字の中にも、詠む人の心の動きと情緒が織り成す抒情詩の世界が広がっている。

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