神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

佐太神社(島根県松江市鹿島町)

松江の市街地を車で通り抜け、田園風景の中を10分ほども走らせると、松江市の北部、三笠山を背に鎮座されている佐太神社に着く。
今日も人一人いない静かな境内である。
神社とは不思議なもので、人の手によって造られ神と人との交流の場でありながら、人の匂いがし過ぎるとありがたみが薄れてくる。
祭りの日のような特別な日であればともかく、普段の日に賑やかな人の気配がするとつまらなく思えてくるのである。
とにかく神社を訪れる時は、静かな時間を過ごしたいという気持ちに駆られた時や、神社に纏わる何かに興味を惹かれた時である。
そういう思いからか、神社に足を運ぶ時はたいがい一人である。
時には、子供たちにも神社という親父の好きな空間で、共に過ごさせようと思って誘ってみるのだが、悲しいかな大きくなるにつれ、誘いには殆ど乗ってこなくなった。

とりわけ、ここ佐太神社は私の好きな神社である。
どこが好きかと問われても上手く答えられないが、神社の造りも色合いも素朴なところが良いと表現すればいいのだろうか。
葺いた屋根の稜線といい、とにかく美しい神社である。
また、いわゆる観光擦れしたところもなく、ひっそりとした穏やかな佇まいを呈している。
つまり、余計なものがないのである。
世間を見渡すと、多くの物が当たり前のように溢れかえっている。
その当たり前のように身近にある多くの物で、私たちの生活は飛躍的に便利になった。
近年では、パソコンが然り、携帯電話が然りであり、それらの恩恵に与っているのも紛れもない事実である。
しかしながら、物が豊かであるということは、イコール心が豊かであるとは言えず、その便利さと引き換えに、情緒や人としての想像力も失われつつあるようだ。
それらのパソコンや携帯電話などの「道具」を使っているのは、あくまでも「心を持った人間」なのである。
目に見える物の豊かさは、かえって心の目を曇らせ、見えるものも見えなくなってしまうのではなかろうか。
目に見えないからこそ、見えてくるものがある。
「ない」ということは、時として新鮮であり、戒めとなる。
ふと、こんなことを考えていると、何時も時計の長針が一周近く回っている。

佐太神社は、中央にひときわ高い正殿、そして両側に北殿、南殿の三殿が立ち並ぶ、いずれも大社造りの独特な三殿並立形式の社である。
出雲国風土記に佐太大神社、あるいは佐太御子社として載っていることから、天平5年(733年)以前より存在している最古級の神社であり、主祭神として嚮導の神である佐太大神(さだのおおかみ)を祀っている。
島根半島にある「加賀の潜戸(かがのくけど)」は、佐太大神生誕の地と伝えられており、風土記によると、支佐加比売(きさかひめ)が、「なんと暗い岩屋だこと」と言って黄金の矢を射ったところ、洞窟の中が光り輝き大神が生まれたという。
また、佐太大神は、天孫降臨の際に邇邇芸命の先払いとして仕えた、あの猿田彦と同一と目されている神である。

佐太神社の祭礼の一つに、9月24日に執り行われる「御座替神事」がある。
この神事は、摂末社より南殿、北殿、正殿と神座を取り替える神事で、年毎に藺茣蓙で神座を新しくすることで、神々の神威が常に新しく続くと考えられているものである。
篝火だけの薄暗い灯りの中で、粛々と大祓詞の奏上の様子を初めて目の当たりにした時、えも言われぬ魂の震えを覚え、他のものを一切寄せ付けない重々しい空気に身体が硬直した思いは、今でも色褪せることなく心に焼き付いている。

そして、明くる日の25日の例祭には佐陀神能が催される。
佐陀神能は、慶長13年(1608年)、佐太神社の神主である宮川兵部少輔秀行氏が、京都に赴いて神能を習い、その能の構成、所作を手本として出雲神話を演じ始めたのが端緒であると言われている。
その後、大正15年に行われた第二回全国郷土舞踊民謡大会に出場し、神能を舞った際に「佐陀神能」と命名された。
現在では、「七座神事」「式三番」「神能」を総称して「佐陀神能」と言われており、昭和51年5月には、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
24日は、茣蓙を清め神々を招祭するための七つの舞からなる「七座神事」が行われる。
この神事は、面を着けずに剣や榊を持って清めたり祓ったりして舞われるものである。
25日は、翁、千歳、三番奴からなる「式三番」と、命、姫、鬼、大蛇などの面を着けて舞う神話劇の「神能」が舞殿にて執り行われる。
出雲神能神楽は出雲を中心とする地域はもとより、備中神楽や荒神神楽、そして、全国の神楽にも影響を及ぼしたと言われている。

昨今、神楽とは名ばかりの「ビジュアル系神楽」が氾濫し、あたかもそれが伝統ある本来の神楽だと履き違え、見る側も演じる側も節操のない「THE神楽ショー」が横行している。
物事の本質を見失い、精神が浮遊した根っ子のない軽薄短小な「根無し草」現象は、残念ながら何も神楽に限ったことではなく、このような世情に嘆きと憂い、そして危機感を禁じえないのは私ばかりではないはずである。
初秋の九月下旬の夜、佐陀神能を初めて拝観した時の感動は、月日が流れても静かに心の中に息づいている。
目に訴えるだけの外見的な神楽でも、視覚的にインパクトのあるだけのその場限りの神楽ではない。
観衆も静かに見入り、決して奇声をあげて騒ぎ立てる者はいない。
神事に沿うように古式ゆかしく格式を持って緩やかに舞われる舞い、そそとした自然な舞い歩き、流れるように翻る袖、秋の夜風に乗る笛の音、古老の古風な味のある舞姿・・・そこには神々しく、そして、神楽の内面性が感じられる神楽本来の神楽が息づいていた。


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