神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

大神神社(奈良県桜井市三輪)

雑踏の大阪駅からJR関西本線に乗り換え、奈良県の東南に位置する桜井市の三輪に向かった。
列車の窓から見える景色は、人混みと直線で形造られたビルの塊の景色から、しだいに長閑な景色へと変わって行く。
まるで、生まれ育った古里を思わせるような、田圃や畑、新緑の山々といった柔らかい景色が目の前に広がって行くのである。
三輪駅に降り立ち、鄙びた小さな商店街の路地を通り抜けると、程なく大神神社に続く参道へと道が開けてくる。
一礼をして鳥居を潜り、木立の中を歩いていると、小さなお孫さんを連れ立って歩く初老の御夫婦や、手をつないで楽しそうに歩く若いカップルの姿が目に入った。
そんな世代を超えた老若男女の姿を見ていると、微笑ましくもあり、そっと胸を撫で下ろすような安堵感を覚えた。

大神神社は、出雲大社、伊勢神宮と並ぶ古社の一つである。
日本書記によると、最初に三輪山に注目したのは出雲神の大己貴神(おおなむちのかみ;大国主命)であったという。
葦原中国をほぼ平定した大己貴神が出雲を訪れ、国造りの協力者を探して彷徨っていると、海が怪しい光に照らされ浮き上がってきた者がいたという。
そして、「もし私がいなかったら、貴方はこの国を治めることが出来たであろうか」と語り、葦原中国の平定は大己貴神一人の力ではなかったと言ったのである。
そこで大己貴神が、その者の名を問うと「私は貴方の幸魂、奇魂である」と言い、更に、この神は「私は大和の三諸山(三輪山)に住みたい」と言うので宮殿を建て、そこに住まわせたのである。
このように、遠い神代の昔、大己貴神が自らの幸魂と奇魂を三輪山に鎮め、大物主神(おおものぬしのかみ)の名をもって祀ったのが、大神神社の始まりであると伝えられている。
それ故、本殿は設けず、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して背後に聳える三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている神社である。

大神神社の末社で、智恵の神様として信仰のある、久延毘古命(くえびこのみこと)を祀る久延彦神社がある。
その境内から見渡す青い山並みや、仰ぎ見る三輪山を目の当たりにして大きく深呼吸をすると、吐く息も浄化されていく心持ちになっていく。
三輪山は、なだらかな稜線を描いた円錐形の山で、奈良盆地をめぐる青垣山の中でも、一際形の整った山である。
山の辺の道から望むその山容も実に美しく、神々に抱かれるような深い安らぎを覚える。
その三輪山は、山内の一木一草に至るまで、神々が宿る神聖な場所として一切斧を入れることをせず、檜や松、杉などの大樹で覆われている霊山であり、大和の象徴だったのである。
崇神天皇は、実在した大和の初代王と考えられているが、その崇神天皇が都に選んだのが、まさに、この三輪山の麓であった。

「うま酒 三輪の山青丹よし 奈良の山の山のまにい隠るまで 道のくま いさかるまでに つばらにも見つつ行かむを しばしばも見さけむ山を 心なく雲の隠さふべしや」
この歌は、天智天皇の強行した近江京遷都に際し、額田王が残した歌であり、遷都によって三輪山を離れてしまうことへの寂寥の念を詠った歌であると言われている。
その万葉の歌碑が、景行天皇陵から程近い山の辺の道の道中にある。
また、その景行天皇の皇子神であった倭建命が、東国へ遠征したその帰り道、伊勢の能煩野で重病にかかり、亡くなる直前に故郷の大和を回想して詠んだ歌が次の歌である。
「倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるわし」
古の人々も、飽くことなく幾度も愛でたであろうこの景色は、まさに、この歌のように今我々が目にする以上に美しい国であったことであろう。

美しい国・・・この言葉は、志半ばにして辞任した安倍元首相のキャッチフレーズであった。
同じ言葉でも人によって受ける印象や解釈はそれぞれ異なるもので、この言葉をめぐって色んな批判や揶揄が乱れ飛んだが、私自身「美しい国」という言葉を、その言葉通りに素直に受け取りたい。
遠い遠い祖先から、今を生きる我々へと脈々と受け継がれ、そして子々孫々へと受け継いでいかなければならない日本という国。
その日本という「国の形」を見失わず、いつまでもいつまでも「美しく」ありたいものである。



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