神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

物部神社(島根県大田市川合町)

東西に長い島根県は、出雲、石見、そして隠岐の三つの国に分かれる。
その出雲と石見の国境にある、現在の大田市の市街地を国道9号線から南側に進み、10分ほど車を走らせると閑静な住宅地の一角に、石見国一の宮である物部神社が鎮座されている。
澄み渡った出来秋の空の下、物部神社は静かな佇まいで私を迎えてくれた。

ここ物部神社の主祭神は、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)である。
日本書記によると、饒速日命(にぎはやひのみこと)は、十種神宝(とくさのかんだから)を奉じ、天磐舟(あめのいわぶね)に乗って、何処ともなく神武東征よりも早く大和国哮峯(やまとのくにいかるがみね)に舞い降り、土着の首長の長髓彦の妹、炊屋姫(かしきやひめ)を娶ったという。
そして、この二人の間に生まれた子が、物部神社の祭神である宇摩志麻治命であり、大和最大の豪族、物部氏の祖神である。
その饒速日命と宇摩志麻治命は、神武東征に最後まで抵抗した長髓彦を殺し、神武に恭順したことでも知られている。

物部神社の由緒によれば、宇摩志麻治命は神武東遷の折、神武東征の功績によって神剣(ふつのみたまのつるぎ)を賜り、その後、尾張氏の祖である天香具山命と共に、物部の兵を率いて尾張、美濃、越を平定し、天香具山命は越(越後)の弥彦神社に留まり、この地の開拓に勤しんだという。
一方の宇摩志麻治命は、更に播磨、丹波を経て、この石見の国に入り、この地の兇賊を平定した後、白い鶴に乗り、鶴降山に降りて国見を行い、神社の背後にある八百山が大和の天香具山に似ていることから、この八百山の麓に宮居を構えたと伝えられている。

当神社の神紋が「日負い鶴」であるのは、これらの伝承によるものであろうが、鶴が太陽を背景にしているのは、物部氏の祖神である饒速日命が、太陽信仰と深い関わりを持っていたものと考えられる。
太陽信仰と言えば、日の神「天照大御神」が一番に思い起こされるが、この天照大御神を祀る伊勢神宮においても、かつては土着の太陽神が祀られていたと言う。
このことからも、日本中のそこかしこの集落ごとに太陽神が存在し、信仰されていたと考えられるのも不思議ではなかろう。

また、社伝によると、最初は神体山である八百山を崇めていたが、継体天皇8年(513年)、天皇の勅命により社殿が創建され、その後、平成19年(2007年)に世界遺産に登録された石見銀山の銀争奪の兵火などで三度消失したものの、安政3年(1856年)には宝暦3年(1753年)に再建された規模で改修され、昭和45年には島根県指定文化財として現在に至っているという。
加えて、祭神が文武の神、開拓の神であることから、古来より領守や大内氏、毛利氏、吉川氏、徳川氏などの武将からも手厚い庇護と信仰を集めたと伝えられている。

この物部氏の出自についても、興味深いものがある。
そもそも日本書記には、饒速日命がいち早く大和の地に降臨したと記述しながらも、「何処ともなく舞い降りた」と素っ気ない表現で、物部氏の出自を秘匿しているのは何故であろう。
この問題に関しては、これまでに数々の推論が出されているようだ。
この中で圧倒的に多く、通説となっているのは、弥生時代における日本列島最先端の地域が九州の北部であり、この西方の地から東方の地である大和へと文物が流れてきたという推論である。
九州北部には幾つかの物部氏の密集地帯があって、九州から東に向かう交通の要衝を物部氏が牛耳り、かつ、九州北部から瀬戸内海沿岸、近畿地方に至る海岸地帯、更には東海道、奥州に至る広範囲な地域に、この物部氏が大きな影響力をもって分布していたことなどを指摘して、物部氏の東遷を唱える説であり、邪馬台国論争とも密接に関わっている。

また、出雲神話と各地の由緒ある神社の伝承などから古代史の謎解きを行い、物部氏の祖である饒速日命は、出雲から大和にやってきた大物主神であると北部九州説を覆した出雲説、あるいは、物部氏は大和建国に最も貢献したのではないかと注目されている吉備であり、この吉備よる大和への東遷ではないかという説で、発足当初の大和の王は吉備出身の者ではないか、だからこそ、吉備出身の豪族がおらず、日本書記に吉備の記述が認めらないのではないかという説である。
この物部氏は吉備であるという推論によると、大和建国の歴史を熟知しながらも、真相を闇に葬る必要に迫られた日本書記の編纂者は、出雲の「国譲り」という神話を構築することによって出雲を封印し、この出雲という地から目を逸らさせる狙いがあったのではないかと論じている。
仮に、そうであるならば、この物部神社は大和建国と同時に、大和と敵対した出雲の「お目付け役」として監視するかのように、出雲の隣国の地である石見の地に建てられたのではないかと思えてくる。
いずれにせよ、今後新たな考古学的資料や文献などの発見によって、物部氏の正体のみならず、古代史の真相に更に近づいていくことであろう。

物部氏と言えば、仏教の導入を巡る物部守屋と蘇我馬子の抗争が思い起こされる。
日本史上における大きな事件の一つである。
仏教を導入するか否かは、第29代欽明天皇の時代である欽明13年(552年)10月に、百済の聖明王が使者を遣わして釈迦仏の金銅像を大和朝廷にもたらし、仏法を伝えようとしたことにより端を発する。
排仏派であった物部氏は、崇仏派の蘇我氏と激しく対立し、敏達天皇崩御の後、蘇我系の用明天皇が即位すると、それまで優勢を保っていた排仏派の形勢は逆転され、この後、物部守屋と蘇我馬子の対決が起きたのである。
「ものふふは、物部」であると、哲学者である上山俊平氏は、その著書「神々の系譜」の中で記述している。
この物部の「物(もの)」は、神を表す古代語の一つで、「超自然的な存在」、「霊魂」を意味し、その根源はアニミズム(精霊崇拝)である。
その一方で、日本書記において、高皇産霊が邇邇芸命を葦原中津国に派遣した時の国情観察で、「よろずの禍々しき諸現象の源をなすものが鬼」の概念とされ、「おに」ではなく「もの」と読まれていること、また、大国主命の国譲りの後、高天原から派遣された神が「諸の順はぬ鬼神を誅ひ」と記されている。
鬼は「もの」、「しこ」、「かみ」などと訓じられおり、古代の人々は、災いや病を引き起こす存在を「鬼」、「疫鬼」として恐れ、討伐の対象にあったものを鬼という文字を用いたのである。
文化人類学者であり民族学者でもある小松和彦氏は、「鬼とは、人間の分身である人間が抱く人間の否定形、つまり反社会的、反道徳的人間として造形された」と述べ、人間にとって、鬼は排除、追放することで人間という概念を手に入れたと端的に纏めている。
政争に敗れた物部氏は没落し、「順(服)はぬ者」として、このような「鬼」のレッテルを貼られたのである。

しかしながら、この「順はぬ者」を現在に当てはめてみると、必ずしも「鬼」という存在ではないと思うのである。
「寄らば大樹の陰」ではないが、体制側が絶対であり、何時も安全で正しいとは限らない。
時には、体制側に組せず、「順はぬ者」として行動を起こさなければならない時がある。
このような事を思いながら、ひっそりとした物部神社を後にし、年に一度の夜神楽が奉納される古里へと車を走らせた。



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