神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

熊野大社(島根県松江市八雲町)

世間はエコ流行りである。
自動車や家電製品に始まり、住宅や身の回りの生活必需品に至るまでエコの文字が躍り、国家財政が逼迫するなか、景気浮揚策の一つとして、エコポイントなるものも登場した。
我が家では勿体ないと、最後まで使う積もりであった3台のテレビが、数年前から次々と壊れ始め、仕方なく全て地上デジタル放送対応のハイビジョンテレビに買い替えた。
映像は流石に綺麗であるが、家にいる時には暇さえあれば本を読み、テレビを見るにしても、普段はニュース番組や時事や歴史を題材にした番組程度しかテレビを見ることのない私にとっては、テレビは必ずしもなくてはならない物ではない。(かと言って、テレビが無い訳にもいかないのだが)
おまけに、テレビと一緒に買い求めたDVDレコーダーの基本的な操作さえ未だに分かろうともせず、どうしても見たい番組の録画や再生が必要な時には、息子の世話にならなければならない始末である。
その息子が就職でもして家を離れれば、取扱説明書とにらめっこしなければならない羽目になるであろう。

そのテレビを買った際のエコポイントの恩恵に与り、先日我が家の廊下と階段にある6箇所の照明を、全てLED電球に取り替えた。
従来の電球は、数年も使うとフィラメントが切れ、年に一度は何処かの電球を交換しなければならなかったが、LED電球は消費電力が少なく、しかも40,000時間もの長寿命であると説明書に書かれている。
しかし、40,000時間と言えば、夜間に1日1時間平均で使うと、100年以上も使用出来るという計算になる。
仮に、1日平均2時間使用するものとしても、50年以上もの寿命があるという計算結果になってしまう。
つまり、残された我寿命よりも、LED電球の寿命は長く、私の死後も家の中を明るく照らし、見守ってくれるということになる。

そんな分からない先の話はさておき、明かりは生活に欠かせないものの一つである。
スイッチを押せば意のままに、そしてあたかも明るくなるのが当たり前であるかのように、足元や部屋の中を明るくしてくれる。
中には、センサーが働いて、勝手に明るくしてくれる照明もある。
一昔前は、ランプやガス燈が照明の主流であり、更に時代を遡ると時代劇に出てくるような菜種油などを使った行灯や、大身の武家や商家、あるいは花街で使われていた百目蝋燭などといったものが挙げられるであろう。
また、婚儀や祭事の際に使われていた篝火や松明といったものもあり、これらは原始的な「火」そのものである。
その火そのものを熾すこと自体、現代の我々にとっては難儀な作業であり、しかも、その火を絶やさずに大切に継いでいくことにも、相当な苦労があったことも想像に難くない。

松江の中心部から、山間に向かって南に凡そ15Km、古来出雲国一の宮として知られた熊野大社が鎮座されている。
参拝には、意宇川の清流に架けられた、朱塗りの八雲橋を渡っていく。
境内中央正面の本殿に素戔鳴命を、左手に母神の伊邪那美命を祀る伊邪那美神社、そして右手の稲田神社には后神である稲田姫を祀っている。
その他に、荒神社や、稲荷神社、舞殿など様々な建物が並んでいる。

この神社の本殿左手に、鑽火殿という萱葺きの屋根に四方を檜皮で覆われた熊野大社独特の社殿がある。
毎年の鑽火祭や、出雲国造家(出雲大社宮司)の襲職時の、火継ぎ式斉行の際の祭場となる社殿であり、その中には、発火の神器である火鑽臼(ひきりうす)と、火鑽杵(ひきりきね)が奉安され、先代の国造が亡くなられると、その後継者は火を神の御霊になぞらえ、火継ぎをしてきたのである。
つまり、出雲国造の継承する火は、魂の霊(ヒ)であり、霊継ぎでもあった。
このような出雲国造の「火継ぎ」は、天皇家の皇位継承法である「日継ぎ」の儀式と似通い、同根ではないかと言われている。
何れにせよ、この火は清浄な神火と呼ばれる火である。
この神火で神饌を作り、神に供え、明かりとしても用いられたのであろう。

神楽にも明かりは欠かせない。
昨今の大きな舞台で催される神楽大会や、イベントでの神楽の照明は煌々と舞台を照らし、様々な趣向を凝らした照明や音響などの凝った舞台装置も使われて、演出を盛り上げようとされている。
もっとも、数十年前の照明器具と言えば、裸電球ぐらいしかなかった訳であるが、暖を取る焚き火や篝火も神楽には欠かせない明かりであった。
私が幼い頃の神楽舞台の照明も、天井からぶらさがった僅かな数の裸電球や篝火であり、明るさも今のように華々しいものではなかった。
その明かりの中で舞われる神楽は、面や衣装に陰影を作り、時折明かりの中から浮かびあがる舞姿は、猛々しさやおどろおどろした形相を目に映し出し、舞台に映し出される舞人の影にも陰翳をもたらしていた。
単に、過ぎ去った古き良き時代を振り返り、懐古的になっている訳ではないが、文明の利器に頼り切ってばかりでは、平面的な神楽しか生まれてこない。
神々しく、そして心地よい余韻に浸る「神楽の灯」も継いで欲しいものである。

佐太神社  美保神社  神魂神社  御井神社  大神神社

物部神社  太鼓谷稲成神社  須我神社
  春日大社  北野天満宮

吉備津彦神社  石上神宮  須佐神社