神々の抱擁

古代史と神楽に魅せられて

北野天満宮(京都市上京区馬喰町)

通称、「天神さん」、「北野さん」の愛称で呼ばれている北野天満宮。
一の鳥居を抜け、長い石畳の参道を歩くと、中門(三光門)、そして国宝である権現造りの社殿へと続く。
特に、学問の神として世に知られ、多くの受験生らの信仰を集めている菅原道真を主祭神とし、相殿には道真の長子・高視と正室の吉祥女を祀っており、福岡県の太宰府天満宮とともに、天神信仰の中心となっている。

主祭神である菅原道真は、承和12年(845年)に、父・菅原是善、母・伴氏(名は不詳)との子として生まれた。
父方は、父も祖父の清公ともに文章博士を務めた学者の家系であり、母方の伴氏は、大伴旅人、家持ら高名な歌人を輩出している家系である。
僅か5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を吟じたといわれており、幼少の頃より文学に秀でた逸材であった。

「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」

この歌は道真が5歳の時に詠んだと伝えられている歌であるが、何とも可愛らしく麗らかな気持ちにさせられる歌であろうか。

そして、18歳で文章生となり、貞観9年(867年)には、文章生のうち二名が選ばれる文章得業生になるなど、幾多の輝かしい経歴を積み重ねた後、文章博士、讃岐守などを拝任して、寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。
当時の第59代宇多天皇は、源氏姓を賜って一旦臣籍に降りながら、父の光孝天皇によって皇籍に復し、皇位につくという唯一の例をもった天皇であった。
この宇多天皇は、親政を実現し、律令国家を再編するため道真を抜擢し、重用した。
天皇の信任を受けた道真は、以後要職を歴任することになる。
寛平6年(894年)には遣唐大使に任じられた(一説には、藤原氏が道真を政権から遠ざけようとして、任命したとも言われている)が、「政情が不安定で危険であり、新たに学ぶべきこともない」との道真の建議により、遣唐使が廃止されたのは歴史的に有名な話である。

寛平7年(895年)には従三位権中納言に叙任され、長女を宇多天皇の女御としている。
寛平9年(897年)、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、引き続き道真を重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原氏のトップであった時平と道真にのみ官奏執奏の特権(いわゆる天皇に奏上すべき公文書を内見し、政務を代行する内覧)が許された。
また、同年には娘を宇多天皇の子である斉世親王に嫁がせている。

醍醐天皇の治世下でも昇進を続けた道真は、右大臣にまで出世するが、道真の主張する中央集権的な政治思想に、朝廷への権力の集中化を嫌う藤原氏を始めとする有力貴族の反発が表面化し、また、家格に応じた生活の維持・安泰を望み、道真の進める政治改革に不安を抱いた中下級貴族の中からも、この動きに同調する者が出てきたのである。
延喜元年(901年)には従二位に叙せられたが、娘の良人である斉世親王が皇位に就くと、醍醐天皇から簒奪を謀ったと讒訴され、ついには大宰府に左遷される身となり、延喜3年(903年)、同地で薨去した。

「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

この歌は、道真が大宰府に向け、都を去る時に詠んだとされる有名な歌であり、その梅が一晩にして京の都から道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も伝えられている。

また、都も遠くなった大宰府への道中で詠んだとされる歌が、次の歌である。

「きみがすむや どこのこずゑをゆくゆくと かかるるまでもかへるみしはや」

道真の死後、京では相次いで異変が起きた。
まず、延喜9年(909年)には政敵であった時平が39歳という若さで病死すると、醍醐天皇の皇子をはじめとする皇族が次々と病死し、更には延長8年(930年)、朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷の要人に多くの死傷者が出るという事件が起きたのである。
これらの死や災害を道真の祟りだとする噂が都中に広まり、御霊信仰と結びついて人々に恐れられた。
そこで、道真の死から20年後、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、天暦元年(947年)には当地・北野の地に道真を祀る社殿が造営されたのである。
以後、室町幕府の攻撃を受けて焼け落ち、一時期衰退したこともあったが、朝廷からも厚い崇敬を受け、江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れて学問の神として広く信仰を集めるようになった

「天神」という神楽演目がある。
この「天神」を掘り下げていくと、その土地土地の歴史、風土、神信仰などといったものに派生していき、神信仰の観点から考えても繊細なテーマともいえる演目ではなかろうか。
石見神楽の六調子と八調子では、その詞章も異なる。
また、道真自身が直接手を下さない「天神」も存在し、社中によっては、この「天神」を舞わない所もあると聞いている演目でもある。

このような「天神」の主役である菅原道真の失脚について、少し触れてみたい。
宇多天皇は31歳という若さで敦仁親王(後の醍醐天皇)に譲位しているが、何故31歳という若さで譲位したのであろうか。
道真は、醍醐天皇が立太子の時から宇多天皇の諮問に与ったと言われており、この事を天皇は道真一人と相談して決め、他にこれに与った者は一人もいないと言われている。
しかしながら、後の醍醐天皇が立太子になった時には、道真はまだ参議になったばかりであり、また、彼の上位には多くの参議がいたのにも係わらず、彼の上級官吏とは誰一人として相談せず、道真だけに相談したのは異常とも思える。
このあたりに経緯から推察すると、道真は本件に対して内面的に深く関わっていたものと思われ、後の道真の失脚の遠因は、ここに胚胎しているのではないかと思われるのである。

また、道真が左遷された時の公式の説明は、余りにも漠然としているのではなかろうか。
特に、「止足の分を知らない」というような表現は漠然としており、正当な左遷の理由としては不十分であろう。
廃立を企てたのが、事実であれば大罪である。
しかしながら、道真自身の心境において、天皇を廃するなどという考えは毛頭なく、潔白であったと信じたいが、このような猜疑をかけられる客観的な節が存在し、道真自身の性格も災いしたのではなかろうか。
いずれにせよ、大宰府に左遷された道真の生活、心境は計り知れないものがあったことは、想像に難くない。

この様な歴史、道真の心境に照らし合わせてみて、何故「神楽・天神」の詞章が、道真自身が手を下して時平を討つ詞章と、拆雷(さくいかづち)に討たせるなど、道真が直接手を下さない詞章とが生まれたのであろうか。
歴史学者や民族学者のような、該博な知識を持ち合わせていない浅薄な私には、明白な説明が出来るはずもないが、以下に勝手な自己解釈の一端を述べてみたい。

神楽「天神」は、道真死後の題材を神楽化したものであり、いわば異界の話である。
同時代の出来事とはいえ、866年に起きた応天門の変の首謀者とされた、大納言・伴善雄の怨霊と神楽という異界の場で戦わせる。
ここにも芸能性、娯楽性としての神楽、また、神信仰における神楽の神楽たる所以があるのではなかろうか。
異界の話を神楽に仕込む・・・しかも、史実上関連性のない応天門の変と、道真の左遷という出来事を組み合わせ、道真の無念を異界を舞台にした神楽によって晴らし、御霊を慰めるという神信仰に対する思いが天神という神楽を通じてでも窺い知れる。

一方では、「道真自身が直接手を下すことは、天神信仰の上からも好ましいことではなく、ひいては暗に朝廷を批判することにも繋がり、本来の神道の精神にそぐわない」という考えが成り立つ。
こういった考え、精神の基に、道真自身が手を下すことのない、原のままの神楽が受け継がれたのであろう。
また、他方では、石見八調子のように、道真自身が直接手を下す「天神」も存在する。
真実、仔細はどうあれ、道真の意を汲み取り、大宰府左遷という事件に対する大衆の鬱積した感情と重なり合って、もやもやとした詞章から、一地域、あるいは一部の民衆の意に沿った、「道真の無念を異界を舞台にした神楽の場で晴らす」という、明確で分かり易い詞章に改変されたのではなかろうか。

また、天神の逸話は全国各地に裾野を持つようである。
その一例として、「天神が安倍貞任を討つ」という逸話も存在していると、以前、何かの書物で読んだことがある。
安部貞任とは、1051年から始まった前九年の役において、源頼義・義家親子によって討伐された奥羽地方の豪族、安倍頼時の子であり、道真の大宰府左遷から100年以上も後の出来事である。
しかしながら、このような逸話が存在していることに対して、史実上全く関連性のないことと単に一笑するのではなく、当時を生きていた民衆の内面に潜む神信仰、思いといったものにも目を向けることが必要であり、歴史から学ぶ意義がある。
何れにせよ、時代の流れとともに、神楽に芸能性、大衆性、あるいは娯楽性が味付けされてきた訳であるが、その根底は神信仰に根差したものであるということは言うまでもない。

時平の早世後、朝廷を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行い、摂政、太政大臣、関白などを歴任したのが弟の藤原忠平であり、その忠平の許へ坂東から出てきた若き日の平小次郎将門が、一時期家人として仕えていたことがあった。
天慶の乱によって、藤原秀郷とともに平将門を破ったのが、従兄弟の平貞盛であり、その貞盛の六世の孫が平家の興隆を築いた平清盛である。
この地方武士の反乱である、平将門の乱と藤原純友の乱(承平・天慶の乱)によって、源氏と平氏の二大勢力が確立されていく。
前九年の役に続いて1083年に始まった後三年の役において、源義家の介入を得て清原氏に勝利した安倍氏の血を受け継ぐ藤原清衡は、奥州藤原氏を開き、二代目の基衡、三代目の秀衡へと続いた。
平治の乱の後、預けられていた鞍馬寺から逃亡し、奥州平泉に下った藤原氏の許には、秀衡の庇護を受けていた後の源義経の姿があった。
その義経の兄・頼朝は、平治の乱によって死刑が当然視されていたが、清盛の継母である池禅尼の嘆願によって助命され、伊豆の蛭ケ小島へ配流の身となっていた。
その後、平氏、奥州藤原氏を滅亡して鎌倉幕府を興した頼朝は、源平抗争の英雄とも評価され、その後、600年以上にも及ぶ武家社会を築いたのである。

歴史の好きな私は、その面白さや醍醐味、また歴史から学ぶうえで何時も感じさせられるのは、「歴史は因果をもって、連綿と続く」ということである。
築かれた過去があるからこそ今があり、その現在を生きている我々の姿によって、未来の歴史が作られていく。
歴史を学び、歴史に学び、そして、考え、想像することは、今を生きる我々の義務である。

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