石 見 神 楽 の 歴 史

 「石見神楽の発祥」について明確な説明は出来ないが、限られた文献からその発祥と今日までの大まかな流れを整理すると次のようになる。

大元神楽

 先ず、民間信仰の農神に捧げる田楽系の行事が石見神楽の原型と思われる。
それが平安末期から室町時代にかけて石見地方に浸透し、小神楽をも融合して田楽系の神楽である大元神楽が形作られた。
 この大元神楽は中国、四国地方に多く信仰されていた大元信仰を中心にして農神に捧げた呪的な神事であり、神職よって式年祭の秋にのみ行われた神楽である。
 大元神楽は「国指定重要無形文化財」に指定されている。

佐陀神楽

 そして、江戸時代の中期頃、謡曲を神能(命や姫、鬼、大蛇などの面を着けて舞う神話劇)化した出雲の佐陀(さだ)神楽が石見地方に伝わり、大元神楽としての神秘さは次第に薄れ、演劇化されて行った。

 この出雲神楽は近世の初めごろ一つの神事芸能として形作られたが、佐太以外の地にもおいても既に古くから何らかの形で神事芸能というべきものが自然発生的に行われており、そこに出雲神楽の影響が及ぼされたものと考えられている。

神俗交代

 旧藩時代の石見神楽は神職が舞う神楽であったが、浜田の神職、田中清見氏(たなかすがみ)によって舞が広められた。
 幕末の頃になると次第に民間から舞う者が出て来て神俗交代に拍車が掛かり、明治維新の頃からは明治政府の敬神思想により、神職に芸人的な石見神楽を演ずる事を禁止した神職演舞禁止令の影響によって民間の社中へと神俗交代が行われた。

 石見神楽の台本で最も古いものと言われるのは文久7年(1810年)に校定されたものであるが、元々神楽は神話や説話を素材にしているので、庶民にとっては堅苦しく難解なものであった。
 つまり、神楽が庶民の手に移ってからは知識の浅さもあって、次第に単純化、卑俗化され神楽の精神とは遠くかけ離れた邪道なものになってしまった。

改定(六調子から八調子へ)

 そこで、石見神楽に芸術的な気品を与え、郷土芸能として育成しようという強い願いから、明治10年代半ば頃から浜田の国学者、藤井宗雄氏らの手によって石見神楽の改定が行われた。

 改定は乱れた台詞を元に戻すと同時に、調子も緩やかなテンポの六調子から速いテンポの八調子に変え、石見人の気性に適応させた。
また、舞の振り付けの工夫や衣装や道具の改善が行われ、特に神楽面は木彫りの面から激しい舞の立ち回りに都合の良い和紙面になり、大蛇には蛇胴が付けられてリアル感が備わった。
 こうして、浜田を中心に石央から石西へと次第に盛んになった。

(写真は「塵輪」 益田市 津田神楽社中)




 しかしながら、折角改正された石見神楽も時の流れと共に、またもや乱脈化して行った。
そこで、昭和10年頃、国語学者の石田春昭氏、神楽研究家・細川勝三氏らによって時代の風化作用で崩れ果てた石見神楽の詩章を復原しようと改革運動が起こった。
昭和第三次の石見神楽の改定作業は10人の委員の共同研究によって行われ、委員の一人、篠原実氏が原案作成の中心となった。
 そして、石見神楽改定の熱い思いが実を結び、昭和29年「校定石見神楽台本」の初版が発行された。

万博公演で転機を迎える

 石見神楽は昭和45年(1970年)、大阪・千里丘陵で開かれた日本万国博覧会に参加して以来、大きく変化した。
 この時、益田市や浜田市の神楽社中が「大蛇」を上演したが、今までのように地域の伝統芸能としてこじんまりと守ってきた石見神楽が、外国人や多くの見物客にも分かり易いようにと効果音や視覚的な要素を織り交ぜて演出し、限られた時間の中でエッセンスだけを表現するショー化の傾向を辿るようになった。

 近年までは各地区の秋祭りで神社に奉納されていた石見神楽であるが、現代では色々な祭りやイベント、夏の水郷祭、あるいは競演会など多くの場で上演されるようになり、県内はもとより中国地方や全国各地においても石見神楽が上演され、外国公演も行われている。
 また、子供神楽を通じて石見神楽の伝承にも力が注がれ、今日に至っている。