神楽・・・その風流なるもの

「神楽・・・その風流なるもの」
何とも仰々しいタイトルを付けたものかと、我ながら恐縮しておりますが、この拙い文章を書き始めるにあたって、「風流」というフレーズしか頭に浮かんでこなかったのです。
私自身、「風流」とか「粋」などといったものとは程遠い世俗的な凡人ですが、何時までも風流を感じられる世の中、風流を感じられる神楽、そして何よりも自分自身が風流を感じられる人間でありたいとの願望を込めて付けたタイトルでもあります。
そんな訳で、このタイトルと内容とが合っているかどうかは分かりませんが・・・いえ、そんな事も一切気に掛けずに、思いつくまま、気の向くまま、気長に書き綴って行けたらと思っております。

目 次

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1. 古事記との出会い   2. 事の始め   3. 名言   4. 今よいつよと   5. あなた鳥


6. 女の魂   7. 秘すれば花   8. 幕切り   9. 舞い上げ   10. 桜と細石


11. 阿吽の呼吸


古事記との出会い

古事記に初めて出会ったのは、今からおよそン十年前の大阪での学生時代のことでした。
古里を遠く離れての男ばかりのむさ苦しい寮生活・・・時折、頭の中をかすめる神楽への想い・・・そんな時訪れたのが校内にあった図書館でした。

しかし、初めて接する古事記は何とも難解なもの。
まず神様の名前が読めない。
何とかそれらしく読んでも、しどろもどろで一向に先に進まず、肝心な内容が殆ど掴めない。
おそらく、こんな経験をお持ちの方は私以外にもいらっしゃるでしょう。
以来、何度も挑戦しましたが途中で挫折の繰り返し・・・。

そんなこんなで何年も経ちましたが、歳を重ねるにつれ、肩に力を入れることもなく、自分なりのスタイルで接することが出来るようになりました。
古事記は、今からおよそ1300年も前に編纂された書物ですが、大和朝廷による政治的な思惑を孕んだ皇国史観の書物であるとか、また、学問、歴史書として堅苦しく構えて接するのではなく、古代を舞台として繰り広げられる壮大なフィクションとして、古代に思いを馳せながらイメージを膨らませて接すると何とも面白い物語です。
物語のスケールの大きさと粋で表現力豊かな語り・・・古代の人々の想像力の豊かさを感じられずにはいられません。

事の始め

古事記の最初には、イザナギとイザナミの二人の神による国造りの様子が描かれています。
(神様は一柱、二柱と呼ぶのですが、ここでは親近感を込めて一人、二人と呼ぶことにしましょう。また、国造りの前段には何人かの神様が登場しますが、一々順序だって覚え切れませんので省略します)

イザナギ、イザナミの二人の神様がオノゴロ島に降り立って御殿を建て、その後に交わした有名?な問答があります。
少し、その時の二人の会話を引用してみましょう。

「汝が身はいかに成れる?」
「我が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」
「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞いで国土を生みなそうと思うが・・・如何に!?」
「しか善けむ(えぇ、いいわよ)」

この会話は「事の始め」、つまり、「目合(まぐあい)」にあたっての会話を描写したものですが、何とも格調高い比喩と言うか、嫌味を感じさせない艶やかな表現だと思います。
この時の二人の姿を想像してみますとクスッと笑いが零れてきそうです。
それにしても、目合と書いて「まぐわい」と読むとは・・・中々味のある良い字を当てたものです。

最近の携帯電話やパソコンを使ったメール・・・これはこれで便利な道具であると思いますが、果たして、便利さ=豊かさなのでしょうか。
人間関係の基本を成すのは血の通った生身の会話・・・時には、こんな洒落た会話が出来るようにありたいものです。

名言

以前、何かで読んだ本の中に、次のような一節がありました。
「退屈さそのものが大衆の文化なのだ」と・・・。

今よいつよと

「この程に今よいつよと待つほどに ねむよの月は小夜にかがやく」

今か今かと待つうちに、蒼い月が夜更けの空にかがやく。
こんな気分で神楽を楽しみたいもの・・・しっとりと、ゆったりと・・・。
この神楽歌・・・土の匂いのする何とも言えない鄙びた味のある歌です。

あなた鳥

葦原の中つ国の主となった大国主命が、ある時、高志(こし:今の新潟県糸魚川辺り)の国のヌナカワヒメを妻にしようと、はるばる出雲から高志のヌナカワヒメの元に出掛けて行き、長々と求婚の歌を歌ったくだりが古事記の中にあります。
その歌を聞いたヌナカワヒメが、寝屋の中から返した歌が次の歌。

「ヤチホコの 神のみこと ぬえくさの めにしあれば わがこころ うらすのとりぞ
今こそは わどりにあらむを いのちは なしせたまひそ いしたふや あまはせづかひ・・・・」
(・・・今の私は渚に漁る鳥のよう・・・今はまだ、波に怯えるわたし鳥・・・きっと後には、あなた鳥になりますものを・・・鳥たちの命はどうぞお助けくださいませ・・・)

と言っても今は昔・・・携帯メールのピコピコ世代の若い人達には、意味が通じないでしょうね。
う〜ん・・・世の中、変われば変わるものだ。

女の魂

「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも」

倭建命(日本書記では日本武尊と表記)は、父の景行天皇より東方征伐を命じられ、幾つかの戦の後、走水(はしりみず:浦賀水道)を渡ろうとしたが、海が大荒れに荒れて船を進められなくなった。

この時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)は、「私が身代わりになって海に入りましょう。あなたさまは、どうか立派に使命を果たして下さい」と言って入水した。
この時の妃の最期の歌が、上の歌であると伝えられている。

「高い山の聳えている相模の国、あの野原の燃え盛る火の中で、私の身を案じて呼びかけてくださったあなた・・・今、お別れする時になって、初めてあなたさまにお会いした時のことが思い出されてなりません」・・・弟橘媛の心境は、このようなものであったであろうか。

それから七日の後のこと・・・弟橘媛が髪に挿していた櫛が浜辺に流れ着いたそうである。
櫛は女性の魂を宿す品物・・・それ故、このような伝説が残っているのであろうか。

秘すれば花

室町時代初期の猿楽役者、作家であった世阿弥の著書「風姿花伝」の中の一節である。
この書物は、単に演劇論、芸術論を説いものではなく、芸を志す者への彼の止むに止まれぬ悲痛な心の叫びが感じ取れる書物でもある。

世阿弥は観客に感動を与える力を『花』として表現し、若者は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない・・・「真の花」は心の工夫公案から生まれると説いた。

心の奥底から込み上げるような感動を覚え、そして静かに後を引くような余韻に浸りながら「あぁー、また観に来たい」と家路に着く・・・このような神楽に出会えると、この上なく幸せである。

『秘すれば花なり 秘せずは花なるべからず』
能に限らず、全ての芸道に通じる奥深い言葉である。

幕切り

澄んだ笛の音が秋風に乗り、夜の静寂をついて重い太鼓の音がドンと一つ・・・向かって左斜交いに据えた幕の裾から白い爪先が覗き、じわっと幕がせり上がる・・・ぞくっと心が震えるような幕切り・・・私にとっては、これもまた神楽の楽しみである。

しかしながら、世の流れと共にせっかちな神楽になり、この「幕切りの楽しさ」さえも味わさせてくれる神楽が少なくなっている。

幕切り・・・失ってはならない神楽の「花」の一つである。

舞い上げ

幕切りと同様、神楽の「花」であり、見所の一つである。
舞人も楽人も、そして観る側も一つになって歌い上げる神楽歌、潔く鮮やかに四隅を切る段・・・まさに、清々しく込み上げるような躍動感を覚え、嬉しさのあまり身も心も踊るようである。
幕切りと同様、蔑ろにされることなく受け継がれて行って欲しいものです。

「♪サイィヨォ〜〜〜サイヨォサァアト・・・」

桜と細石

天孫・邇邇芸命と結ばれた木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)には、石長比売(いはながひめ)という姉がいた。
木花之佐久夜毘売は、開花した木の花(桜)の女神で美と短命の象徴であり、その名が示す通りとても美しい娘であったという。
一方の石長比売は、岩石の女神で、醜さと永遠性とを象徴する姫であった。


二人の娘の父である大山津見神は、姉の石長比売も添えて邇邇芸命の許に嫁がせたが、ひどく醜い顔の石長比売に恐れ戦いた邇邇芸命は親許へ送り返してしまった。
実は、大山津見神が二人の娘を奉った訳は、天つ神の御子の命が石の如く常永久に変わらず、また、木の花の咲き栄えるが如く栄えることを祈る意味が込められていたのである。
しかしながら、石長比売を送り返したことによって、桜の花のように儚い生命となり、以来、大君の寿命が長久ではなくなったと古事記は伝えている。

ともあれ、桜は日本人の精神、美意識を象徴する花である。
一方、永遠性の象徴である石・・・『さざれ石の巌となりて』の如くありたいものである。

【敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花】

阿吽の呼吸

社頭や社殿の前に置かれている、一対の獅子に似た獣の像のことを狛犬という。
その狛犬や山門に置かれた仁王像の口は、一体が大きく口を開けた「阿」、もう一体は口を閉じた「吽」の状態で、互いの呼吸が合うという意味の「阿吽の呼吸」のそれである。

阿は口を開いて字音を発する音声で、字音の初めを、また吽は字音の終わりを表しており、万物の初めと終わりを象徴している言葉であり、密教では、「万物の根源と一切が帰着する知恵」の象徴とされている。(と言われても、私みたいな凡人には良く分かりませんが・・・)

一方、阿吽の呼吸の反対の意味を表し、調和のとれていない様を「ちぐはぐ」と言います。
この「ちぐ」は「鎮具」で金槌を意味し、また「はぐ」は「破具」で釘抜きを意味するそうです。
つまり、金槌を使いたい時に釘抜きを渡され、また、その逆でも一向に仕事が捗らない様を表現した言葉だと思います。

ともあれ、「阿吽の呼吸」を肌で感じられる神楽を拝観したいものである。