神楽あれこれ


      神楽に関する「あれこれ」を書き綴ってみました。





目 次

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天蓋   斎燈      足袋   巫女   烏帽子   彩位

注連縄
  神社  天神地祇  三種神器   参拝  神楽と山伏

桑原桑原

天蓋

天にかかる蓋という意味で、仏像などの頭上に懸垂された蓋を指す。
インドでは日差しが厳しく、説法の時には直射を避けるために傘を用いていたが、後に仏像が造立されるに及んで頭上に皿の形をした蓋を付ける風習が生まれた。

石見神楽では舞座の頭上に吊るした飾りを天蓋という。(別名「青しば」、「くも」などとも呼ぶ)
一間四方の竹の枠に榊の枝などを稠密に絡ませ、白幣や五色の幣が飾り付けられる。
天蓋は秋祭りの当日に氏子によって丹念に作られ、神楽には欠かせないものの一つである。

斎燈

神仏の燈明(とうみょう)として焚く柴火のことで、神の寄り付きとして、また神を送る時にも燃やされ、同時に照明や暖を取る火としても使われる。
斎燈の火がこうこうと揺らめく様は一層の神々しさを感じさせられるものである。

神楽の夜には神楽殿の外側で斎燈が燃やされていたが、近年はこのような光景はあまり見られなくなった。
火の粉が蒼い夜空にはじけ、こうこうと燃えさかる火の向こう越しに・・・また薄明かりの裸電球が風に揺らめく中で、衣装や面の表情が変わるゆく神楽本来の神秘性は、近年催されているイベント会場の照明では味わえないものである。



芸人などに与える祝儀のことで、花代という。
石見神楽では観客から社中に対して「花を打つ」と言い、その花を神楽の合間に社中から観客に披露される。
花が披露される時の口上もまた夜神楽での楽しみの一つでもある。

足袋

神楽に限らず、足袋は「日本の舞」に欠かせない大事なものの一つです。
足袋の起源も語源についてもこれといった定説はないようですが、11世紀の平安末期には「足袋」の文字が使われていたそうです。

足袋の踵の部分に付いている金具の止め具のことを「こはぜ」と呼びますが、この字をちょっと調べてみると何と四つもの字があるんですね。
「甲馳」「牙籤」「甲鉤」「骨板」、これら全て「こはぜ」と読むそうです・・・知りませんでした。

足袋に関する「管理人」の失敗談を一つ・・・今からン十年前の高校生だった頃、「急遽人手が足りなくなったので、応援に来て!」と学校に連絡が入りました。
しかし、衣類の準備は何もしておらず、かと言って自宅に帰る時間もなかったので、取る物も取り敢えずあるお宮さんまで駆け付けました。

ところが、普通の人より大きい私の足に合うサイズの足袋を持っている人がいなくて・・・。
仕方なく、中でも一番大きな足をしていた先輩から足袋を借りましたが、それでも「こはぜ」を一つ止めるのが精一杯・・・とても見苦しかったことと思います。

今でも鮮明に覚えている冷や汗の出る思いをした遠い昔の出来事です。

巫女

神懸りをして神の言葉を人々に伝える人のことを学問用語でシャーマンというが、この巫女も神に仕えた女性であり、神のお告げを伺い、祈祷をして神の御加護をお願いする役目を担っていた。
巫女となる女性は容姿端麗で知能も優れていたそうであるが、何よりも霊感に優れ、神のお告げを直ぐに感得する女性であったようである。
今もお宮に仕えており、白衣に緋袴を身に付け、お祭りの時には鈴や榊、扇などを持って舞も舞っている。

この巫女の「巫」という文字・・・上の横一本線は天、つまり神の世界、下の横一本線は人間の世界を表し、そして真ん中の縦一本線で神と人とを繋ぎ、その左右に人人と書いて巫女を意味した表意文字であると解釈できます。

烏帽子

黒塗りした烏色の帽子という意味があり、山の名前にも沢山付けられています。
この烏帽子は奈良時代以来、結髪の一般化につれて広く庶民にも用いられ、立烏帽子・風折烏帽子・折烏帽子・侍烏帽子・萎烏帽子などの種類がある。

この烏帽子を少し調べてみましたら、烏帽子の表面に付いている凹凸の「しわ」のことを「錆」と呼び、「大錆」「小錆」「柳錆」「横錆」の四種類があり、年齢や官位が高くなるにつれて大きい錆の烏帽子にしたそうです。
因みに現代の神職の立烏帽子の殆どが小錆で、稀に柳錆のものを用いるそうです。

彩位

先日、ある事がきっかけで色の位、つまり彩位について話題になりましたので、この機会に大まかに纏めてみました。

この彩位は聖徳太子が603年に定めた冠位十二階制に基づき、夫々の階級を色で示したことに始まっている。

この位階の制度は「徳」「仁」「礼」「信」「義」「智」の各々を「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大礼」「小礼」「大信」「小信」「大義」「小義」「大智」「小智」の大小に分け、十二階から成っている。

元々日本の支配階級は、その血統を示す氏(うじ)と身分の尊卑を示す姓(かばね)とをもち、代々の地位を世襲してきた。
太子は中国の官僚制度を取り入れて政治組織を改革しようとし、その一つとして冠位十二階を定め、その夫々の階級を表すのに異なる色の冠を用いたのである。

冠の色は「紫」「青」「赤」「黄」「白」「黒」の六色とし、大小は色の濃淡によって区分されていた。
この六色は陰陽五行説の五色「青」「赤」「黄」「白」「黒」に紫を加えたもので、その彩位を上位の順に並べると次の様になり、紫が最も高貴な色、鼠色が最下位の色とされている。
紫色や藤色は、今でも高貴なものを彩る色として使われている。

1位:紫色
2位:藤色
3位:青色
4位:水色
5位:赤色
6位:桃色
7位:橙色
8位:黄色
9位:灰色
10位:白色
11位:黒色
12位:鼠色

以上が、冠位十二階制における彩位の順位であるが、以後757年の「養老律令」の「衣服令」などに見られるように冠位・服位は幾つかの変遷を辿っている。

我が国は中国の陰陽五行説、道徳哲学の影響を受けているが、我が国固有の神話的思考や古代の宇宙観における色彩概念の違いと考えられる彩位の相違が見受けられ、また、時の体制の混乱による色彩象徴主義の混乱、十二世紀以降の公家から武家への勢力の移り変わりによる武家の独自性などにより、厳格に位置づけられていた位色も変遷を辿って来た。

注連縄(七五三縄、標縄)

内外の境界、あるいは出入禁止の印として引き渡された縄の事であり、特に、神社や神前の周囲に引いて清浄な地として区画するために用いられるものである。

古代には、自分の農地の周りに縄を張って他人がむやみに立ち入るのを防ぐ慣習があり、神社もこれに習って区画されるようになった。
更に、神域の境界の縄と他の縄とを区別するために紙垂(しで)が付けられるようになった。

注連縄の種類には、大根注連、牛蒡注連、前垂注連がある。

神社

現在の神社は、信仰のため、また神と人との交流の場として人々が集まる「神苑」つきの形をとっている。

古くは、神々は大きな石や木の周辺、あるいは山や川に集まると考られ、祭りの時以外は立ち入る事の出来ない特別な場所とされていた。

こうした特別な場所(祭場)から現代の神社に発展する間に「神籬(ひもろぎ)」が作られた段階があったとされている。
そして、七世紀初めに神籬が置かれた場所に神殿が造られるようになった。

静寂とした神社の境内に身をおくと、身も心も清々しい気持ちにさせられる。
木立から零れる柔らかく優しい光、しんと静まり返った冷たい空気・・・目に見えない何かを感じながら、ゆっくりと時が流れて行く。

天神地祇(てんじんちぎ)

日本の神々は、天の神(天神)と地の神(地祇)とに分けられる。
記紀では天津神(あまつかみ)は高天原系統の神、国津神(くにつかみ)はその国で生まれたか、天孫降臨以前に国にいた神々、または豪族を指す。
天津神は国津神より尊いものとして上位におかれた。
これは、五世紀末に伝えられた儒教思想の影響により作られたものである。

六世紀の初め、王家は太陽神である天照大御神を祖神(おやがみ)とし、国内全ての神々をその親族、もしくはその配下であるとする神話作りを始めた。
つまり、王家による全国支配が志向されたのである。
そして、天照大御神信仰の成立と共に、神々の世界である「高天原」が構想されるに及んだ。

主な天津神:伊奘諾尊以前の神々(天御中主尊:あめのみなかぬしのみこと)など
        天照大御神、月読命(つくよみのみこと)
        天照大御神に仕えた天児屋根命などの神々

主な国津神:須佐之男命とその子孫の神々(大国主命、事代主命など)
        奇稲田姫、宗像三神などの神々

なお、天津神・国津神の「津(つ)」は体言と体言との所属の関係を表し、多くの場所を示す名詞の下に付く助詞である。

三種神器

天孫降臨に際し、天照大御神が邇邇芸命に授けた
・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)
・八咫鏡(やたのかがみ)
・草薙の剣(くさなぎのつるぎ、天叢雲剣:あめのむらくものつるぎ)
の三種の宝物の事で、以来、皇位の印しとして歴代天皇に継承されてきた。
(後鳥羽天皇が神器を受けずに践祚したのは唯一の異例)

玉は岩戸の前の真榊の枝にかけた「五百箇(いほつ)」のみすまるのたま、鏡は天照大御神が岩戸に籠った時、天の金山の真金(砂鉄の意であろう)でイシコリドメノミコトが作ったもの、そして、剣は須佐之男命が八岐大蛇を退治した際、その尾から出たものである。

曲玉は璽(じ)として玉ないしは印として伝えられ、鏡は伊勢神宮の神体、剣は熱田神宮の神体となった。
別に模造された鏡は宮中の賢所に、剣は常に天皇の側近に安置するのを例とされたが、平家滅亡の時、安徳天皇と共に海底に沈んだ。
そのため、現代の剣は皇大神宮(伊勢神宮の内宮)から献上された剣を神器としていると言われている 。
この三種神器が現存しているのか、それとも消失しているのか、様々な説が飛び交っているようである。

参拝

神社の入り口に立っている鳥居は、神域と俗界を区別する意味を持っている。
この神聖な場所である入り口に鳥居を立てる風習は、神社という建物が造られる以前からあり、神殿がなくても鳥居があれば神域である神社とされた。
現在でも、鳥居だけが置かれ、建物がない形の神社がある。
今日の有力な神社の参道には複数の鳥居が見られるが、最も外にある鳥居を一の鳥居といい、拝殿に近づくに連れて二の鳥居、三の鳥居と名付けられている。

神社への参拝は、この鳥居をくぐる時点から始まる。
俗界から神域に入る参拝者は身を正し、清らかな心で鳥居をくぐたいものである。
上体を少し前かがみにして鳥居をくぐり、そして社殿へと続く参道は、神の正面にあたる中央を歩くのは避け、両端の何れかを歩くのが礼儀とされる。

参拝する前に手水舎(ちょうずや)に立ち寄り軽く一礼。そして手を洗い口を漱ぐ。
先ず、右手で柄杓に水を汲み左手を清める。
次いで、柄杓を左手に持ち替え右手を清める。
その後、右手で柄杓に水を汲み、その水を左手の掌に受けて口を漱ぎ、そして再びその左手を清める。
使った柄杓は少し斜めに傾けて柄の方に水を流し、元の位置に戻しておく。
最後に軽く一礼して手水舎を出る。
この手水舎で手を洗い、口を漱ぐ行為も簡略化された禊祓(みそぎはらえ)の一つである。

拝殿の前では、神への供物の代わりとして賽銭箱に賽銭を入れ鈴を鳴らす。
鈴の音は神霊を招き、除魔の霊力があるとされており、神事には欠かせないものである。
続いて「二拝二拍手一拝」をする(出雲大社などのように例外もある)。

神社で行われる奉納神楽・・・先ずは心静かに参拝を済ませ、神楽に接したいものである。

神楽と山伏

六世紀の半ば日本に仏教が伝来して以来、朝廷の支配層の意向によって、しだいに神道は仏教や儒教の知識を取り入れながら一定の形式に纏められ、ひと先ず平安時代に神仏習合という形をとって完成した。

平安時代の末期に、熊野、吉野などにおける山林修行が盛んになり、神道や仏教など様々な民間信仰を融合させた熊野大社を中心とする修験道という信仰が形成された。
この修験道を身に付けた修験者(山伏)たちは、皇室との関係を強めつつ、各地の農村への布教に努め、多くの役割を果たしてきた。

例えば、薬草や呪術による医療行為や神社の別当、師弟の教育、参詣案内、祭りの助言や指導、あるいは外部からの情報をもたらす語り部でもあった。
このことは、神楽という芸能においても見受けられ、長押張りなどと呼ばれる飾り物もその一例であり、神仏習合という中世的習俗が今日に残存している。
また、古い言い伝えなどから、神楽の伝播、伝承という側面においても山伏が深く神楽に関与してきたものと思われる。

桑原桑原

菅原道真は、左大臣・藤原時平の讒言によって大宰府に流され失意のうちに亡くなった。
その後、都に疫病が流行り、火災や落雷が相次ぎ、また道真を陥れた政敵が次々と不慮の死を遂げると、人々は道真の怨霊によるものと考え、その祟りに戦いた。

当時は御霊信仰が盛んで、道真の領地があった桑原の地だけが落雷の被害に遭わなかったこともあり、道真を火雷天神とする御霊信仰が起こった。

雷鳴の時、「桑原、桑原」と唱えて落雷を避ける呪文として用いられ、また、一般的には忌まわしい事を避けるためにも使われる。

後に、道真の崇りを恐れた人々は、霊を慰めるために京都北野にあった天神社の傍らに霊を祭る社を建てた。
これが北野天満宮の始まりである。
即ち、道真の霊を祭る前から天神さまが既にあったのである。
実は、天神さまは元々天津神として祭られており、時が経つにつれ、天神社と道真を火雷天神とする御霊信仰が一つになったのである。